Dr. Candyの自由研究

いつかの未来の誰かの発想を開くために書き残しておきたいこと

形而上物理学【第一章・集合状態の累次展開】

「無の存在」の存在

 この世界のはじまる前には何があったのかについて、一般的には何もなかった、「無」から宇宙が生まれたということとされていて、宇宙が膨張を続けているという観測結果から時を遡った宇宙の開闢以前は空間も時間も何もない「無」であったということが宇宙論によって説かれているものの、「無」なるものからなぜこの宇宙が出て来たのかという「無のパラドックス」を抱えることになり、それが謎として残るということになる。自分としては、「無」というものが宇宙のはじまる前にあったとして世間一般に認識されているという点で、そこに「無の存在」の存在を指摘し、「無の存在」の存在がこの世界のはじまる前に存在したと見るところに、「無の存在」とはどのような存在であるのかについて考え始めたということになる。「無」というものは認識の対象にも思考の俎上にも登らないから無であると見るところに、「無」というものは本当に無いから「無」であるということになる以上、宇宙のはじまる前に「無」があったと言うのであれば、それは「無の存在」が存在したと解釈する以外にはないということである。

「量」や「数」の存在しない世界

 「無の存在」とは何かについて考えるにあたり、それはそうしたものがとにかく存在しているとしか言うことができないものであるけれども、それが「存在」しているのであれば、存在という状態を表現するためには[存在するところ]と[存在するもの]とが必要になって来るということになる。[存在するもの]について、もしそれが1個、2個・・・とかぞえることのできるものであったとしたら、1個目が[どこ]に存在して2個目が[どこ]に存在し、1個目と2個目とがどの[角度]と[距離]を持つのかという空間的な「量」というものや、その固有の中身を示す「数」というものが出現するということになり、さらにその[角度]と[距離]を見ているのが誰なのかという大問題が発生するということになる。そのような「量」が表現された状態がはたして「無の存在」の存在を示すもの足り得るのかと言えば、それはやはりあり得ないということになる。そこに、「無の存在」の存在を示すためには一切の「量」や「数」を表現から切り離すことが必要になるという、その世界における大原則が見出されるということになるし、それであるからこそその世界が形而上の世界であるということになる。

不特定無数の原理

 しかし、その世界には「無の存在」の存在というものがとにかく存在していなければならないのだから、「量」や「数」なくして「無の存在」の存在がいかにして表現され得るのだろうかということになる。とにかくそれが存在しているけれども、「量」や「数」というものでそれを表現することができないものが何に相当するのかについて、それを「1つ」と言うこともできなければ「2つ」と言うこともできないというところで、それがそうした具体的な数で表現することのできない〝無限〟であれば、それが「いくつと言うことはできないけれどもとにかくそれが存在している状態」を表現するものと見ることが出来るということになる。「量」や「数」としてかぞえることのできない「不特定無数」という事実上の無限個の丸ごとを「無の存在」の存在の集合状態であると見る時、それがそこに存在することは確かだけれども、その存在を「量」や「数」で表現することもできないという状態を表現することができるということである。そのように、その世界には一切の「数」も「量」も存在しないことに基づき、その世界の中に存在するものは常に「不特定無数」に及ぶ集合状態を取るとするのが形而上のその世界の基本的な原理の一つということになる。

対称性の原理

 そのように、「無の存在」の存在が「不特定無数」にわたって集合状態を取るというのが、一切の「量」や「数」が存在しないその世界における大原則であるというところに、その不特定無数にわたる集合状態がどのような構造を持つものであるのかが表現されなければならないということになる。その点について、もし不特定無数にわたる集合状態が、たとえばトレイにちりばめた小豆のようにてんでばらばらのランダムに転がっていたとしたら、そこにはそれぞれの空間的位置という「量」が生じてしまい、一切の「量」や「数」が表現し得ない状態としての「不特定無数」が成立しなくなってしまうということになる。しかし、不特定無数にわたる集合状態が{←逆|順→}という対称的な並びを延々と続けていると見る時、不特定無数にわたる集合状態を構成するそれぞれは相互に順でもあり逆でもありその中央・原点でもあるという状態の重ね合わせを取り合い、それが延々と続いて終わりがいつまでも見えないという「不特定無数」が表現されるということになる。それは、一切の「量」や「数」の表現なくして不特定無数にわたる集合状態の構造が表現された状態に相当するということになる。そのように、集合状態のとる{←逆|順→}の対称性という空間的な構造は、不特定無数というその世界の大原則と一体的不可分のものであるということになる。

開いた対称性と閉じた対称性

 {←逆|順→}の対称性の原理に基づく不特定無数にわたる集合状態は開いた横並びが延々と続くものとしてイメージされるということになり、それであるからこそ不特定無数の原理が事実上の〝無限〟としてイメージされるということになる。その一方、たとえば360度の分度器があって、その目盛りを際限なく細かくして行くところにも〝無限〟は存在するし、ボールの転がりの角度を際限なく小さくして行くところにも〝無限〟は存在するということになるのだから、そのような閉じた〝無限〟にイメージされる不特定無数についても{←逆|順→}の対称性に基づく集合状態が表現されるということになる。すなわち、回転としてイメージされる閉じた{←逆|順→}においても、その〝回り〟に「不特定無数」が表現されるところに、その中の不特定無数のどれもが順でもあり逆でもあり原点でもあるという状態の重ね合わせが表現されるということになる。そのように、不特定無数にわたる集合状態には、開いた{←逆|順→}と閉じた{←逆|順→}の両様の対称性の原理が表現されているということになる。

開/閉の集合状態

 「開いた対称性」と「閉じた対称性」の様態のイメージはそれぞれ開いた線状のもの、閉じた点状のものと、それぞれのイメージはかけ離れたものということになるけれども、それはあくまで脳裏の中でのイメージに過ぎず、その形而上の世界には一切の「量」や「数」が存在しないという大前提がある以上、そこには長さも角度も何も、一切の「量」となるものや「数」として表現されるものは存在しないので、「開いた対称性」と「閉じた対称性」の区別はつかない重ね合わせ状態を取るということになる。簡単のために、開いた{←逆|順→}の対称性の原理に基づく「不特定無数」を[開いた集合状態]、閉じた{←逆|順→}の対称性の原理に基づく「不特定無数」を[閉じた集合状態]と表記することにする。また、「不特定無数」の最小単位となる「無の存在」の存在という何ものかについて、そのビーズのようなものが物質とも点とも何とも表現することができないことから、それを取り敢えず「局在」と表現することとする。

開/閉の一体性

 [開いた集合状態]について、それは{←逆|順→}の対称的な並びが延々と続いていつまでも終わりが見えない状態としてイメージされるということになるけれども、その世界には一切の「量」や「数」が存在しないのだから、その不特定無数にわたる並びに始点もなければ終点もなく、ここが始点であるとして印をつけることも、ここが何番目の並びであるとカウントして行くこともできないということになる。だとすれば、もしそれがたった10個の「局在」の成す閉じたビーズの輪のようなものであったとしても、その中に並ぶビーズに印をつけることも始点や終点を見極めることもできないのであれば、その中を進んでも永遠に終点は見えないのだから、それは開いた並びを延々と進んでもいつまでも終わりが見えない状態と区別がつかないということになるし、「10個」という数とも無縁ということになる。つまり、[開いた集合状態]には、それが永遠の{←逆|順→}の並びの両端が開いた状態としてイメージされる不特定無数と、閉じた円環のような永遠のループとしての{←逆|順→}の並びとしてイメージされる不特定無数とがあるということになる。そこに「開いた集合状態」のバリエーションとして[開の開いた集合状態]と[閉の開いた集合状態]という、その内側の世界では区別のつけることのできない開/閉の一体性が表現されるということになる。

集合状態の累次展開

 [開/閉の開いた集合状態]も[閉じた集合状態]も、その世界には一切の「量」や「数」というものがないという大原則に基づき、それらの集合状態が1つある、2つある・・・というカウントということができず、それら集合状態も引き続き「不特定無数の原理」の下に1オーダー上の集合状態を構成するということになる。「局在」の不特定無数の集合状態がさらに不特定無数の集合状態を成す状態は大規模に過ぎるものとしてイメージされることになるけれども、それはあくまでも脳裏の中でのイメージであり、その世界には一切の「量」や「数」が存在しないことを以て、集合状態の集合状態には長さも大きさも角度も何もないということになり、それを大きさや形を伴うものとして取り扱うことはできないということになる。[開いた集合状態]と[閉じた集合状態]とがそれぞれ1オーダー上の不特定無数の集合状態を成すと見る時に、双方の1オーダー上の集合状態の成し方やその様態が異なって来るということになり、そこに集合状態としての異なる空間的な特徴が表現されて行くということになる。

第一段階の集合状態

 上記を整理すると、第一段階の集合状態として[閉じた集合状態]と[開いた集合状態]とが表現され、[開いた集合状態]の側には開/閉の一体性に基づく[開の開いた集合状態]と[閉の開いた集合状態]とが表現されているということになる。さらにそれらの集合状態が不特定無数の原理の下に第二段階の集合状態を構成するということになる。

第二段階の集合状態を表現する条件

 [開の開いた集合状態]について、それを「局在」が不特定無数の原理と{←逆|順→}の対称性の原理の下に成す無限に開いたビーズの紐のようなものとイメージする時、未だ「量」や「数」が存在しないその世界に、それがさらに不特定無数の原理の下に寄り集まった1オーダー上の集合状態を成さなければならないとすると、もし無限に開いたビーズの紐のようなものが毛糸のように絡み合った状態で集合状態をとると考えても、そこにはそれぞれの位置関係や曲がりや絡み方という「量」や「数」の表現が生じるのでそうした集合状態は表現できないということになるし、だからといって無限に開いたビーズの紐のようなものが順番に積み重なるように並んだ状態で集合状態をとると考えても、それは実質的に[開の開いた集合状態]の表現と何も変わらないということになる。だとすれば、そこには引き続き不特定無数の原理が{←逆|順→}の対称性の原理とかみ合った状態での新たな集合状態の表現が成されなければならないということになる。

第二段階の集合状態(開)

 [開の開いた集合状態]が[閉じた集合状態]と区別のつけることのできない一体的重ね合わせ状態にあることを考慮する時、[開の開いた集合状態]を構成する全ての「局在」も[閉じた集合状態]を取るということになり、その重ね合わせ状態はそのどちらの集合状態の側から見た場合においても「不特定無数の原理」と「対称性の原理」とを満たした新たな集合状態を表現しているということになる。[閉じた集合状態]の成す不特定無数に及ぶ{←逆|順→}の閉じた並びを逆回転/順回転のようなものとしてイメージする時、それが無限に開いたビーズの紐にイメージされる[開の開いた集合状態]と一体となったものは、ビーズの紐の中のビーズの一つ一つが紐の方向を軸として逆回転/順回転の自由度を持った状態としてイメージされるということになる。その状態は[開の開いた集合状態]の側にとっても[閉じた集合状態]の側にとっても、ともに不特定無数の原理が{←逆|順→}の対称性の原理とかみ合った状態での次の第二段階の集合状態に相当するということになる。その集合状態は[開の開いた集合状態]×[閉じた集合状態]と表現されるべきものということになる。

第二段階の集合状態(閉)

 それと同じことが閉じたビーズの輪にイメージされる[閉の開いた集合状態]の方にも言うことができるということになり、そこに[閉の開いた集合状態]×[閉じた集合状態]という第二段階の集合状態が表現されるということになる。ビーズの輪にイメージされる[閉の開いた集合状態]に、[閉じた集合状態]という閉じた向きの自由度というか、回転の自由度にイメージされる集合状態が掛け合わせられることになるのが[閉の開いた集合状態]×[閉じた集合状態]ということになる。それがどのようなものとしてイメージされるのかについて、ビーズの輪の中のビーズのそれぞれが輪の向きを軸として逆回転/順回転する自由度を持った状態とイメージすることが出来るということになる。

集合的原点の原理

 そこで注視しなければならないのは、[開/閉の開いた集合状態]というビーズの紐/ビーズの輪に連想されるものを構成するどの「局在」が[閉じた集合状態]として〝向き〟というものを連想させる閉じた{←逆|順→}の対称性の原理を取るのかについてである。その世界には未だ一切の「量」や「数」が存在しないことを以て、どこから何番目の「局在」がそれにあたるということも、どの「局在」が〝向き〟の原点であるかということも一切表現することができない以上、全ての「局在」が〝向き〟の原点でもあり得るとともに、他の全ての原点に係るボリュームでもあり得るという状態の重ね合わせ状態がそこに表現されるということになる。それを簡単のために「集合的原点」と表現することにする。

第三段階の集合状態を表現する条件

 上記の[開の開いた集合状態]×[閉じた集合状態]という第二段階の集合状態が成すさらに1オーダー上の集合状態について考えるとすると、第二段階の集合状態がなぜ第三段階の集合状態を成さなければならないのかについて、その世界には「1つ」という「数」も一切の「量」も未だ存在しないことによる不特定無数の原理という大原則があり、第二段階の集合状態もそれが「1つ」だけあるということを表現することができず、それらがさらに不特定無数にわたって1オーダー上の集合状態を構成しなければならなくなるからということになる。だとすれば、[開の開いた集合状態]のパートについても[閉じた集合状態]のパートについても、ともに不特定無数の原理と{←逆|順→}の対称性の原理とかみ合った状態を取り合うことで次の第三段階の集合状態を成さなければならないということになる。

第三段階の集合状態(開)

 [開の開いた集合状態]のパートと[閉じた集合状態]のパートの不特定無数の原理と対称性の原理とのかみ合いに基づく新たな集合状態がどのようなものになるのかについて考えれば、開いたビーズの紐の中のビーズの一つ一つが紐の方向を軸とした自由度にイメージされる閉じた対称性({←逆|順→})を得た第二段階の集合状態に、さらにもう一つの閉じた対称性({←逆|順→})という回転の自由度にイメージされる状態が加わることによって、そこに不特定無数にわたるビーズの紐がありとあらゆる方向を向いて放射状に伸びた第三段階の集合状態が表現されるということになる。その様態はウニのようなものがありとあらゆる向きに針を伸ばしたようなものとしてイメージされるということになる。それとともに、ビーズの紐は「集合的原点」の状態を取るのだから、ビーズの紐の中にあるビーズはその全てが放射状のひろがりの原点でもあり、かつ他の全ての原点にかかるボリュームでもありうる重ね合わせ状態ということになる。その集合状態は[開の開いた集合状態]×[閉の閉じた集合状態]と表記することができる。その表現のイメージを簡単のために、ありとあらゆる向きに不特定無数にわたる針を伸ばした〝ウニ〟と表現することにする。

第三段階の集合状態(閉)

 閉じた第二段階の集合状態([閉の開いた集合状態]×[閉じた集合状態])の側についても同様、[閉の開いた集合状態]×[閉の閉じた集合状態]の図式で1オーダー上の集合状態を構成するということになる。回ることのできるビーズの輪にイメージされるものどうしが寄り集まって新たな集合状態を作ることを想像する時、ビーズの輪が向きの自由度にイメージされるものを得て一所に寄り集まる第三段階の集合状態は球のようなものがイメージされるということになる。しかし、それは開いた三次元空間という外の世界からの視点を当てたイメージであり、それがどのような集合状態を成すかはその集合状態の内側から考えなければならないということになるし、三次元空間のどこかに立ってそのボールを外側から眺めている誰かがそこにいるという大問題も抱えるということになる。そのように考える時、そこにあるのがビーズの輪だけであるのであれば、ビーズの輪という一回りの中にもう一つの閉じた〝回転〟にイメージされるもうひとつの[閉じた集合状態]の一回りの要素が表現されなければならないということになる。それを、一回りの輪の中にもう一回りの輪が混ざったようなものとイメージする時、そこには閉じた螺旋という様態が浮かび上がって来るということになる。コイルの輪のような閉じた螺旋は、螺旋をゴムのように引き延ばせば一本の輪になることを以て、そこにもう一回りの輪を畳み込み、螺旋の輪の中にさらに螺旋があるという入れ子構造も表現されるということになる。螺旋の輪の中に畳み込まれたその螺旋についても、それをゴムのように引き延ばせば一本の輪と同じなのだから、そこにもう一回りの輪を混ぜ込んで螺旋の輪の中の螺旋の中の螺旋が表現されることになる。それもゴムのように引き延ばせば一本の輪と同じであるというところに、螺旋の輪の中にはいくらでも螺旋が入り続けることになり、そこに螺旋の輪の中に畳み込まれた不特定無数の螺旋の綾という第三段階の集合状態([閉の開いた集合状態]×[閉の閉じた集合状態])が表現されるということになる。螺旋の輪の中の螺旋の中の螺旋の中の螺旋の中の・・・という様態は、さながらに渦潮と呼ばれているものを思い起こさせるというところから、簡単のためにその集合状態のイメージを〝渦潮〟と表記することにする。

自己再帰的集合状態の永遠の空回り「|順→}」

 その上で、それらの集合状態がさらに1オーダー上の集合状態を成すことになるというのがその世界の大原則としての不特定無数の原理ということになるけれども、〝螺旋の渦潮〟がどういう状態を取っているのかについてあらためて考えれば、螺旋の輪の中の螺旋の中の螺旋の中の螺旋の中の螺旋・・・という螺旋が螺旋が呼ぶ累次展開は不特定無数の原理に基づいて無尽蔵に行われ続けるということになる。〝ウニ〟についても、その世界には未だ一切の「量」や「数」が存在していない以上、閉じた回転には〝細かさ〟という「量」はなく、その刻みは不特定無数の原理に基づいて際限がないのだから、ウニは不特定無数にわたって無尽蔵にその針を増やし続けるということになる。それがどういうことであるのかについて、螺旋の中の螺旋やウニの針が不特定無数の原理の下に無尽蔵に増え続けることにより、その第三段階の集合状態がいつまで経っても集合状態として完成し切れず、その構成要素たる螺旋やウニの針が増え続けても螺旋や針は常に不特定無数であり続けるということになる。つまり、その構成要素である螺旋やウニの針が第三段階の集合状態を成すために、不特定無数という事実上の無尽蔵として供給され続けても、それがいつまでも不特定無数の螺旋を畳み込んだ〝螺旋の渦潮〟や不特定無数の針を伸ばした〝ウニ〟という同じ姿のままで自己再帰的集合状態を永遠に空回りさせて、次の第四段階の集合状態へとは踏み出せないという状態が表現されるということになる。それを以て集合状態の累次展開は打ち止めということになる。自己再帰的集合状態の永遠の空回りという一方的な状態は、そこに逆向きがないという非対称性を持った「|順→}」という状態に相当するということになる。「|順→}」の状態は、日常生活において時が流れはしても逆戻りはしないという実感を何となく連想させるということになる。

その世界の果てとしての「|順→}」

 自己再帰的集合状態の永遠の空回り状態たる「|順→}」によってその一つ上のオーダーの集合状態を表現することができなくなったことにより、「無の存在」の存在にはじまる集合状態の累次展開は第三段階の集合状態で終わりということになり、その世界全体が「|順→}」で取り囲まれた形をとるものとしてイメージされるということになる。「|順→}」の外側の世界がどのようなものであるのかについて、それは自己再帰的集合状態の空回りがいつまでも終わらない以上、状態を表現することが永遠に不可能であり続ける領域ということになる。だからと言ってそれが「無」であるということができないのは、それが「外の世界」として認識・思考の俎上に登る「有」だからである。したがってその状態を表現することができない「有」=「外の世界」は、それが存在しないと言うことができないけれどもその状態を表現することが永遠に不可能という性質を持つという点で「完全不確定状態」と表現すべきものということになる。

「形而上物理学」の全体的構造

 そのように、集合状態の累次展開は●第一段階の[開の開いた集合状態]及び[閉の開いた集合状態]ならびに[閉じた集合状態]、●第二段階の[開の開いた集合状態]×[閉じた集合状態](ビーズの紐)及び[閉の開いた集合状態]×[閉じた集合状態](ビーズの輪)、●第三段階の[開の開いた集合状態]×[閉の閉じた集合状態](ウニ)及び[閉の開いた集合状態]×[閉の閉じた集合状態](渦潮)と、6種類の集合状態を表現した上で、第三段階が自己再帰的集合状態の永遠の空回りたる「|順→}」の状態を取り続けることで一巡するということになる。それが「形而上物理学」の全体的な構造に相当するということになる。