Dr. Candyの自由研究

いつかの未来の誰かの発想を開くために書き残しておきたいこと

「不完全な決定論」の不確定性から成るこの世界

 この世界を成り立たせている種々様々な「量」について、その値を知ることができるのはその計測精度の水準までで、計測や観測の装置の精度を越えたところにある値は知ることができません。しかし、装置を改良することでその精度をさらに高めて行くことはできます。それでも、いくら精度を高めてもさらにその精度を越えたところにある値は知ることはできません。

 しかし、その量の純粋な値は観測装置の制度の向こうに必ず存在しているということになります。だとすれば、その量の「純粋な値」という真の姿は、測定精度の最小単位の値と値の間のどこかに存在しているのだろうとしか言うことできない不確定性の幅を持つことになります。

 「純粋な値」を考慮すると、最小単位までしか観測することのできないこの世界の量は不確定性を持つということになります。ある現象があったとして、それに係る量の値を確定させた上でその現象を起こせば、その一部始終は再現性のある現象として、何度でも同じ振る舞いを見せるということになります。しかし、そこに「純粋な値」を考慮すると、その現象の一回一回の再現性は人間の目や観測装置には同じように見えるだけで、厳密にはそのどれ一つとして同じ振る舞いを見せない再現性のない現象ということになります。

 「量」によって成り立つこの世界においては、現象の再現性を保証する「決定論」が不確定性の幅を持つ「不完全な決定論」にしかならないということです。「量」それ自体の存在が自発的な対称性の破れということになります。

 二重振り子現象にみられる「初期値鋭敏性」ということを考えると、いくら精度を高めても全く同じ値の量を厳密に再現することはできそうにはないということになります。光の二重スリット実験のスクリーン上に見る光子の一点一点の再現性のなさも、それが「コペンハーゲン解釈」という単なる「解釈」なのではなく「不完全な決定論」から来る不確定性、つまりこの世界に量を持つものには必ず何かしらの不確定性が伴うという原理がそこにあるものとして、「解釈」を「説明」へと昇華させる糸口がどこかにあるのではないかと私は想像を巡らせます。