Dr. Candyの自由研究

いつかの未来の誰かの発想を開くために書き残しておきたいこと

「意味の基本構造」の原理の累次展開としての脳

 感覚器官は「刺激」という情報を捉えるたくさんの細胞からなります。その中のたった一つの刺激の点の明滅のような情報だけ見ても、それが何を意味するのかはわかりません。しかし、それら無数の刺激という情報をひとつにまとめると、それがその感覚の「像」という情報として意味を持つようになります。脳は体中の各感覚器官からの刺激という情報を集めて「像」を取りまとめています。

 各感覚の「像」についても、それらが体性感覚の像をベースに三次元的に一体的に取りまとめられ、この目を見開いた一面の「視界」を成しています。視覚の二次元の像が立体的に見えるのはそのためで、一点透視図法で描かれた平面上の絵画に奥行きの立体感が感じられるのもそこから来ています。

 そのように、脳は[刺激]→[像]→[視界]と、情報と情報とを繋ぎ合わせることを繰り返して新たな「意味」を累次的に生成しているということがわかります。つまり、脳の機能は複雑極まりないと言われている一方、情報と情報とを繋ぎ合わせることによって新たな意味が生成されるという「意味の基本構造」の原理という観点から見れば、脳は「意味の基本構造」の原理を着実に累次展開させているだけとのシンプルな見方も出来るということになります。

 視界の中から空間的・時間的な感覚的基準によって取り出された「記憶」という情報についても、記憶がただぽつんと単独で脳に取り入れられているのではなく、ある物とある物との空間的位置関係や時間的前後関係といった繋がり合いが芋づる式にある程度つながった状態で取り入れられていて、その情報と情報との繋がり合いがその時の光景という意味として記憶されているということになります。つまり、記憶のネットワークは情報と情報との繋がり合い方としての「意味」のネットワークに相当するということです。

 概念に関しても、「どれも同じような物」という記憶を整理する箱の中に入り得る物どうしの繋がり合いによって生成される意味の一種ということになるし、思考に関しても記憶のネットワークの中の情報と情報との繋がり方を色々とイメージし、その中でこれまでに知られていなかった情報と情報との繋がり方を発見するところにひらめきがあり、わかった!として考えがまとまって新しいことがわかるようになるという、記憶のネットワークの中の意味の探求の営みということになります。

 言語についても、記憶のネットワークに形作られた概念の数々やそれらの繋がり方のパターンという情報に、音や文字という全く別の情報を繋ぎ合わせることによって生成された「意味」ということになり、自分の思いや考えを言葉にする、文章にするというプロセスもまさに「意味の基本構造」の原理そのものが自意識によって用いられたものということになります。

 そのように、脳というものは、外から情報を取り入れてから言語によって外へと発出するまで、その全てのプロセスが各様の「意味の基本構造」の原理の累次展開で成り立っているということがわかります。脳の解剖学的な構造は複雑でも、そのメカニズムは「意味の基本構造」という一つのシンプルな原理で一貫しているのです。

「意味の基本構造」の原理の累次展開としての脳

 感覚器官は「刺激」という情報を捉えるたくさんの細胞からなります。その中のたった一つの刺激の点の明滅のような情報だけ見ても、それが何を意味するのかはわかりません。しかし、それら無数の刺激という情報をひとつにまとめると、それがその感覚の「像」という情報として意味を持つようになります。脳は体中の各感覚器官からの刺激という情報を集めて「像」を取りまとめています。

 各感覚の「像」についても、それらが体性感覚の像をベースに三次元的に一体的に取りまとめられ、この目を見開いた一面の「視界」を成しています。視覚の二次元の像が立体的に見えるのはそのためで、一点透視図法で描かれた平面上の絵画に奥行きの立体感が感じられるのもそこから来ています。

 そのように、脳は[刺激]→[像]→[視界]と、情報と情報とを繋ぎ合わせることを繰り返して新たな「意味」を累次的に生成しているということがわかります。つまり、脳の機能は複雑極まりないと言われている一方、情報と情報とを繋ぎ合わせることによって新たな意味が生成されるという「意味の基本構造」の原理という観点から見れば、脳は「意味の基本構造」の原理を着実に累次展開させているだけとのシンプルな見方も出来るということになります。

 視界の中から空間的・時間的な感覚的基準によって取り出された「記憶」という情報についても、記憶がただぽつんと単独で脳に取り入れられているのではなく、ある物とある物との空間的位置関係や時間的前後関係といった繋がり合いが芋づる式にある程度つながった状態で取り入れられていて、その情報と情報との繋がり合いがその時の光景という意味として記憶されているということになります。つまり、記憶のネットワークは情報と情報との繋がり合い方としての「意味」のネットワークに相当するということです。

 概念に関しても、「どれも同じような物」という記憶を整理する箱の中に入り得る物どうしの繋がり合いによって生成される意味の一種ということになるし、思考に関しても記憶のネットワークの中の情報と情報との繋がり方を色々とイメージし、その中でこれまでに知られていなかった情報と情報との繋がり方を発見するところにひらめきがあり、わかった!として考えがまとまって新しいことがわかるようになるという、記憶のネットワークの中の意味の探求の営みということになります。

 言語についても、記憶のネットワークに形作られた概念の数々やそれらの繋がり方のパターンという情報に、音や文字という全く別の情報を繋ぎ合わせることによって生成された「意味」ということになり、自分の思いや考えを言葉にする、文章にするというプロセスもまさに「意味の基本構造」の原理そのものが自意識によって用いられたものということになります。

 そのように、脳というものは、外から情報を取り入れてから言語によって外へと発出するまで、その全てのプロセスが各様の「意味の基本構造」の原理の累次展開で成り立っているということがわかります。脳の解剖学的な構造は複雑でも、そのメカニズムは「意味の基本構造」という一つのシンプルな原理で一貫しているのです。

「不完全な決定論」の不確定性から成るこの世界

 この世界を成り立たせている種々様々な「量」について、その値を知ることができるのはその計測精度の水準までで、計測や観測の装置の精度を越えたところにある値は知ることができません。しかし、装置を改良することでその精度をさらに高めて行くことはできます。それでも、いくら精度を高めてもさらにその精度を越えたところにある値は知ることはできません。

 しかし、その量の純粋な値は観測装置の制度の向こうに必ず存在しているということになります。だとすれば、その量の「純粋な値」という真の姿は、測定精度の最小単位の値と値の間のどこかに存在しているのだろうとしか言うことできない不確定性の幅を持つことになります。

 「純粋な値」を考慮すると、最小単位までしか観測することのできないこの世界の量は不確定性を持つということになります。ある現象があったとして、それに係る量の値を確定させた上でその現象を起こせば、その一部始終は再現性のある現象として、何度でも同じ振る舞いを見せるということになります。しかし、そこに「純粋な値」を考慮すると、その現象の一回一回の再現性は人間の目や観測装置には同じように見えるだけで、厳密にはそのどれ一つとして同じ振る舞いを見せない再現性のない現象ということになります。

 「量」によって成り立つこの世界においては、現象の再現性を保証する「決定論」が不確定性の幅を持つ「不完全な決定論」にしかならないということです。「量」それ自体の存在が自発的な対称性の破れということになります。

 二重振り子現象にみられる「初期値鋭敏性」ということを考えると、いくら精度を高めても全く同じ値の量を厳密に再現することはできそうにはないということになります。光の二重スリット実験のスクリーン上に見る光子の一点一点の再現性のなさも、それが「コペンハーゲン解釈」という単なる「解釈」なのではなく「不完全な決定論」から来る不確定性、つまりこの世界に量を持つものには必ず何かしらの不確定性が伴うという原理がそこにあるものとして、「解釈」を「説明」へと昇華させる糸口がどこかにあるのではないかと私は想像を巡らせます。

「不完全な決定論」の不確定性から成るこの世界

 この世界を成り立たせている種々様々な「量」について、その値を知ることができるのはその計測精度の水準までで、計測や観測の装置の精度を越えたところにある値は知ることができません。しかし、装置を改良することでその精度をさらに高めて行くことはできます。それでも、いくら精度を高めてもさらにその精度を越えたところにある値は知ることはできません。

 しかし、その量の純粋な値は観測装置の制度の向こうに必ず存在しているということになります。だとすれば、その量の「純粋な値」という真の姿は、測定精度の最小単位の値と値の間のどこかに存在しているのだろうとしか言うことできない不確定性の幅を持つことになります。

 「純粋な値」を考慮すると、最小単位までしか観測することのできないこの世界の量は不確定性を持つということになります。ある現象があったとして、それに係る量の値を確定させた上でその現象を起こせば、その一部始終は再現性のある現象として、何度でも同じ振る舞いを見せるということになります。しかし、そこに「純粋な値」を考慮すると、その現象の一回一回の再現性は人間の目や観測装置には同じように見えるだけで、厳密にはそのどれ一つとして同じ振る舞いを見せない再現性のない現象ということになります。

 「量」によって成り立つこの世界においては、現象の再現性を保証する「決定論」が不確定性の幅を持つ「不完全な決定論」にしかならないということです。「量」それ自体の存在が自発的な対称性の破れということになります。

 二重振り子現象にみられる「初期値鋭敏性」ということを考えると、いくら精度を高めても全く同じ値の量を厳密に再現することはできそうにはないということになります。光の二重スリット実験のスクリーン上に見る光子の一点一点の再現性のなさも、それが「コペンハーゲン解釈」という単なる「解釈」なのではなく「不完全な決定論」から来る不確定性、つまりこの世界に量を持つものには必ず何かしらの不確定性が伴うという原理がそこにあるものとして、「解釈」を「説明」へと昇華させる糸口がどこかにあるのではないかと私は想像を巡らせます。

「純粋な形」(2)相対性理論をイメージしやすくする「場」としての光

 感覚としての視覚を取りまとめる脳の中の「アングル」という空間的な情報処理によって見えているのが見かけ上の形であり、真の「純粋な形」はそんな脳の働きの外側の世界に所在している、ありとあらゆる「アングル」で見て取られ得る全ての可能性の一体的重ね合わせ状態が「純粋な形」に相当するということになります。

 だとすれば、ある物体にとっての「純粋な形」はその周囲の全方向から見た見かけ上の形の重ね合わせ状態ということになるし、さらにその重ね合わせ状態は物体までの距離に応じて無限遠まで連続して広がっているということになります。

 ある物体の「純粋な形」が宇宙の全域にまで広がっていると見る時、形というものは光を介して目に見えるということになるのだから、「純粋な形」と光を同じものとして考えれば、光は光速で宇宙を伝播するのではなく、一種の「場」として常に一定不変に宇宙全体に広がっているということになります。

 その上で、ある物体を宇宙に置くとする時、3000万キロメートル離れたところでそれが見えるのは100秒後ということになるのが光速での光の伝播ということになります。しかし、光が「純粋な形」たる一種の「場」として常に一定して宇宙全体に広がっているものと見れば、その物体の形が100秒かけて見えるようになるのはその光の「場」に対して空間の方が一定の傾きを持って進んでいるからということになります。つまり、光の「場」に対する空間の傾きが時間なのであり、その傾きの大きさが光の速さと言われているものに相当するとの視点が開けるということです。時が流れる「現在」は光の「場」と空間との交点に当たることになります。

 空間上をある速度で移動する時、その速度が速ければ速いほど光の「場」に対する空間の傾きが浅くなります。その速度が30万キロメートル毎秒に達した空間の傾きは光の「場」と平行することになります。光の「場」に対して空間の傾きがなく平行した状態では時間の経過がなくなるということになります。また、常に一定した光の「場」に対する空間の傾き方が重力の強さに応じた「時空の歪み」と呼ばれているものに相当するということがわかります。

 光がブラックホールに入ると出て来られないと言われていることを、光の「場」に対する空間の傾きが平行になってぺちゃんこになったために時間の進みがなくなったこととしてイメージする時、ぺちゃんこになったその空間の傾きを徐々に回復させて行く様子を思い浮かべれば、重力の作用が弱まるにつれて空間が広がり、それに応じて時間が進み始めて行く様子もイメージすることができるようになります。

 相対性理論について、光を光速で追いかけたらどうなるのかということを考えてもそのイメージはなかなか沸いては来ないし、ブラックホールや太陽の回りの空間が歪んでいる様子を想像するにも想像しがたいものがあります。しかし、それを光の「場」に置き換えれば、横一本のまっすぐな線(光の「場」)に交わる斜めの線(空間)の傾き方で速度や時間や空間の歪みというものの関係性を容易にイメージできることがわかるし、重力についても斜めの線(空間)の平行方向への曲がり方として容易にイメージできることがわかるでしょう。

【純粋な形】(1)脳による対称性の破れ

 大きな競技場の真ん中にマンホールの蓋を置き、観客席を数万の観客で埋めます。一つ一つの観客席から見えるマンホールの蓋の形はどれ一つとして同じ形、同じ大きさをして見えるということはなく、観客一人一人によって全て見え方が異なります。

 数万の観客席からのそれぞれ異なるマンホールの蓋の見え方の中で、どれが〝正しい形〟であるのかを決めることはできません。

 どれが〝正しい形〟であるのかを決めることができないのがなぜなのかと言えば、数万の観客席に座る一人一人にとっての「形」は、一人一人の視覚の「アングル」という脳の空間的な情報を取りまとめる働きによって情報処理をして見て取っている主観的な生得的解釈であるからです。つまり、唯一の客観的な「純粋な形」は脳の外側の世界に所在しているということです。

 「純粋な形」というものがいったいどのようなものであるのかについて、それは人間の脳の働きに基づく「アングル」という生得的主観の一切が排された状態の形であるということになります。それがどのようなものであるのかと考えれば、ありとあらゆる「アングル」の下にある見かけ上の形の全てが一体となった集合的全体性としての重ね合わせ状態ということになります。それは全ての可能性が一体となった集合的全体性として高度に対称的な「形」ということになります。

 「純粋な形」をありとあらゆる「アングル」の下にある見かけ上の形の全ての一体的重ね合わせ状態としての高度に対称的な形と考えれば、誰かが「純粋な形」にその「アングル」をあてがって見て取る見かけ上の形は「純粋な形」にとっての対称性の破れに相当するということになります。この世界に生きる一人一人はそれぞれの「アングル」で形を切り取ってこの一面に広がる視界という世界を認識しています。この世界は「アングル」という脳の働きによって対称性が破られた世界なのです。

【異世界の翻訳問題】(2)日常に渦巻く異世界

 人間の心の機微を人工知能に伝えようとしても、人工知能は伝えられた内容の言葉と言葉の繋がり合いのパターンだけを学習するだけであるのなら、人工知能にとって人間の心というものそれ自体が何であるのか「わからない」のだと考える時、人工知能にとって心というものはアクセスすることのできない異世界の事象であるからそれが「わからない」のだということになります。

 心を持つ人間も「わからない」に囲まれて生きています。電話のベルが鳴った時、なぜその時のその場所のそのタイミングで電話のベルが鳴ったのかは「わからない」、相手が誰なのかも「わからない」、用件が何であるのかも「わからない」ということになります。「わからない」からこそ電話に出て話をします。

 街を歩く時、道々で擦れ違う人々がいて、なぜその場所のそのタイミングでその人達と擦れ違うのかは「わからない」、なぜその人達とその順番で擦れ違うのかも「わからない」ということになるし、いつもの交差点の信号待ちに居合わせた人々の顔ぶれがなぜその時にそれらの人々になったのかは誰にも「わからない」ということになります。同じことは道路を走る車や自転車にも言えます。

 誰かと話をする時、次の瞬間に相手がどのようなことを言い出してくるのかも「わからない」、でも「わからない」から話をしなければならないということになります。

 スーパーの棚に並ぶ一個のりんごを手にする時、なぜそのりんごがそこにあるのかは「わからない」し、自分がなぜそのりんごを手にしたのかも「わからない」、或は理由などないということになります。それと同じことはスーパーの中の全ての商品にも言うことができます。

 そのように、人間は普通に生きているだけでも常に無数の「わからない」に囲まれています。それら「わからない」がなぜわからないのかについて、「わからない」は異世界の事象だからということになります。もしそれら「わからない」事象を事前にわかっている人がいたとすれば、その人は超能力者、予言者といった人間の能力を超越した人物として有名になるでしょう。「わかる」人がなぜ人間の能力を超越した人のように見えるのかについて、それはやはり「わからない」という異世界の事象が「わかる」からなのだということになります。

 それが「わかる」人はいません。人は誰しも自分がなぜ生まれて来たのかも、自分が何ものなのかも「わからない」まま生きて行きます。人は「わからない」の異世界から生まれ、「わからない」の異世界の中をさまよい続ける存在なのです。さらに、自分が死んだ後にどうなるのかも全く「わからない」というおまけがつきます。

 その全てが「わかっている」のなら人生を歩む必要はなくなります。つまり、「わからない」からこそ人生を歩むことができるのだということになります。